有明海から長崎県諫早市に向かって入り込んでいるのが、諫早湾です。
遠浅な地形で干満の差が大きい有明海では、昔から湾岸の各地で、
農地を確保するための干拓事業が行われてきました。
今回の諫早湾における干拓事業も、当初(1950年代)は
食糧増産のための農地作りを目的としたものでした。
しかし時代の流れの「コメ余り」に、
食糧増産を目的とした干拓計画は行き詰まり、
かわりに防災を目的とする、規模を小さくした干拓計画が動き始めたのです。
干拓の方法を簡単に説明すると、干潟を堤防で仕切る→ 海水をくみ出す→
堤防内地を開発する、という順になります。
したがって干拓地では当然、土地の低さが問題となり、
満潮時の海水面よりも低い土地が実に多く存在しています。
昔からゼロメートルの低地ゆえの水害に悩まされてきた諫早の住民は、
防災のために、貴重な命の海を閉めきる覚悟をしたのです。
ところがいざ干拓が始まってみると、前代未聞の海苔の不作に驚いたのは、
有明海を挟んだ対岸の、福岡や佐賀の漁民達でした。
海苔の養殖業者たちは自らの命をかけて、谷津農相に直訴したのです。
「宝の海を返せ」と。
しかしそのまま有明海に通じる排水門を開けてしまっては、
高潮から諫早の土地を守るという防災の効果は、期待できません。
諫早の住民達もまた、自らの命をかけて事業継続を訴え始めました。
こうして漁民同士の、文字通り「泥沼」の争いが始まってしまったのです。
推進・反対の両派に、それぞれ異なる意見を持つ学者が付き、
谷津農相の発言も一転二転するなど、とてもおさまりそうにない状況です。
漁民同士の、終わりがないとも思える争いを目の当たりにし、
その後に双方が和解することの困難さを想像すると、
まさしく「諫早の海(漁業)は死んだ」のだと、思わざるを得ません。
(written by MiZ)
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